「昭和20年1月13日、私たちの 住んでいる地域に大きな地震があ りました。これは、その地震のとき深溝小学 校の今の職員室の裏あたりにでき た地割れです。  この地震は「三河地震」と呼ばれ、 幸田町では41戸の家が倒れ25 人のひとが死亡しました。」

「三河地震は、愛知県を中心に東は新潟、福島県。西は島根、広島県、四国全島で 感じられるほど大規模なものでした。」

三河地震(1945年1月13日)と深溝断層
 東日本大震災が2011年3月11日に起きました。1000年来の大地震といいますが、今から70年近く前にはここ三河地方に大きな地震が起きました。
 それが、1945年(昭和20年)1月13日午前3時38分に起きた三河地震です。当時、日本は戦争中であり、被害の大きさはほとんど報道されませんでした。多くの人々の死や苦しみは、秘密にされたのです。
 
  下の写真は、深溝小学校の校舎を建て替えた時に、床下から見つかった「地震による地割れの跡」です。
 深溝には、このように断層があり、西深溝にある「西深溝断層跡」にまでつながっています。
 古い写真と、最近の写真、そして地図でたどってみたいと思います。

 深溝小校舎床下から見つかった地割れの様子
 手前の割れ目は、向こうのコンクリートの基礎も破壊しています。
 このような割れ目が数箇所みつかりました。

 『深溝小記録写真集』より

「断層の種類はこの4つの形に分けられます。このうち深溝断層は左下の一方がせりあがってできた逆断層と呼ばれるものなのです。」

「矢印のように力がはたらき、三ケ根山のある側がせりあがったと考えられます。この地震では、せりあがった南西側に被害が多く見られます。」

「これは深溝小学校から見える形原へぬける道ですね。 この峠を登り切る少し手前に・・・。」

 深溝小の南の正門にあった「五本松」は運動場の拡張工事の時に伐られてしまいました。
 左の写真から10年後のことです。
 
 昭和46年解体中の校舎から五本松や海谷(うにや)方面を眺める。

 『深溝小記録写真集』より

「深溝小学校の周囲では、形原@から形原の峠A、逆川への入り口B、保育園の横Dをへて西深溝Eへとつらなっています。
そして、西深溝と逆川の境の峠Fで吉良町へぬけています。断層の跡が残っているところを形原から順に追ってみましょう。」

 形原の宗徳寺の断層
 もともとの地面の高さが同じだった本堂と左の建物の高さが、地震で変わってしまったことがよくわかります。左の建物がせり上がったのです。(2012年撮影)


 
※矢印で示してあります。
 

「形原と深溝の境では土を採ったために断層面が現れています。多くの場合、断層面は両方の土に挟まれてもまれるために、このように黒っぽい色に変色します。」

「学校の下のお宮さんの塀は、そのときの地震で割れました。もちろん、灯篭も倒れました。」

 断層が右から道路を横切って左につながっています。「朝学校に来たら、割れ目がぱっくりと空き、地震のたびに、開いたり閉じたりしていて、こわくて校門を入れなかった。」という話がつたわっています。(2013年1月撮影)

「ひとつの大きな地震が起きると地面を押す力のバランスが崩れて、小さな地震が続きます。深溝断層の起きた三河地震は赤い○ですが、その前後にこのように多くの所を震源地として地震が続きました。人々は1日に何度も地震が起きるので家の中にいることができず、1月の寒いときでしたが1週間近くやぶの中で過ごしました。」

「このようになっています。右と左の高さは1m40pも違いますが、地震の前は同じ高さのたんぼだったのです。」

「このように地震で一方が高くなった ために傾いてしまいました。 向かって右方向と道路方向に傾いています。」

 現在の写真です。
右が本堂で、左がせり上がったお堂です。
2010年撮影)

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印を結んだ線が断層線です。

「赤色の○は昭和20年の三河地震、黄色の○は明治24年に起きた濃尾地震、緑色の○は昭和23年の福井地震です。
数字は地震の起きた年で○の大きさによって地震の大きさを表しています。この3つの大きな地震はいずれも断層をともなっていて、図のようにつながりのある地震であることがわかります。このことは1971年飯田先生、坂部先生らによる研究によって明らかにされました。」

 西深溝の断層です。
よく整備され、70年近く前の地震のすごさを伝えています。
 中央向こうに桐山の峠があり、断層はさらにその西の西尾まで続いています。(2012年12月撮影)

 深溝小学校の写真記録には、いくつかの「断層写真」が残っています。
断層は、年月の経過とともに埋まり、分かりにくくなっていますが、「断層写真」は、地震が起きた頃の様子を伝えています。

 1971年(昭和46年)校舎解体の時の写真です。校舎を取り壊した時に、その床下から地震の割れ目がみつかりました。
           『深溝小記録写真集』より

 これが、露頭(地表)に現れていることで有名な西深溝の断層です。子どもたちが立っています。その段差の大きさが分かります。

断層は、×印のように走っています。

 人家からすぐ南に入った山地内にあります。長い間に埋まってきていますが、右側が南で、せり上がった方です。まだ、「みぞ」のようになっており、不思議ですが、草などがあまり生えていないようです。この断層は、東西に走っていますが、ここから断層はほぼ直角に南北に曲がっています。「南側がカギ型にせり上がったというのでしょうか。
 この断層に続くのが下の写真です。子どもたちが入ると、その溝(みぞ)の幅や、深さがわかると思います。

 墓地の断層ですが、現在ではどこが地震によってできた断層なのか、分からなくなっています。段差がいくつもあるせいなのです。どれも、地震によってできたように見えます。

「西深溝のはずれの池の堤から北を見たところです。畑の真ん中に続いている線が断層によってできた線です。これを近くで見てみると・・。 」

「深溝小学校の校舎の裏ですが、点線のところには、地割れができていたそうです。そして、学校の宿直室も倒れてしまいました。」

「深溝小学校の下、逆川へ行く道の入り口です。ここは、今は坂になっていますが、地震の起きる前までは平らだったそうです。
 1月13日の午前3時38分に地震があったのですが、暗がりの中で外に飛び出した人は道路に段ができていたので驚いたそうです。また、電線が切れていたり、何軒もの家が倒れていました。ここから学校の下あたりが一番ひどかったようです。 」

(ページの初めに現在の写真との比較があります。)

深溝断層地図

 下の図は、「深溝断層地図」です。今から13年ほど前に深溝断層の調査が行われ、名工大の正木先生が作られました。この地図をもとに、地震のあとをたどってみましょう。

Dの地点  深溝小学校東の「段差」跡

 古い写真と比べてみても、その「段差」がわからなくなっています。話を聞きますと、この「坂」は、もともとなかったとのことです。 

2012年の写真

1975年頃の写真

深溝小学校・校舎下にあった地割れあと
  『深溝小記録写真集』より

F地点の断層線

 地図のE地点、深溝小学校を通っている断層線です。右手前の黄色の字から駐車している車のあたりを通り、写真中央に並んでいる車(左から5台あたり)のあたりを通って竹林を抜け、向こうに見える深溝保育園の右を通って、左の山の稜線が切れたあたりにつながっています。

同じ場所の1975年頃の写真です。
黒い×しるしのところを断層が通っています。

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 左の石垣部分を大きく映した写真です。写真中央の「石垣のでっぱり」が押し出されたなごりです。
写真中央から左側が「左の方に動き」、左の石垣と、右の石垣がずれたのです。

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G地点の断層
H地点の断層
J地点の断層
 起伏のある竹林内を断層が通っています。こちら側に腰をおろしている子と向こう側にいる子どもたちの地盤が離れて(割れて)しまったのです。断層の溝の中に、一人入っていますが、深さはひざくらいまで埋まっていますね。×印の線に断層は走っています。
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M地点の断層

南側
(隆起した(上がった)方)
            

北側
(動かなかった方)
            

北側
(動かなかった方)
            

南側
(せり上がった方)
            

HとIの間
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深溝断層は、1945年(昭和20年)1月13日の深夜に起きました。戦争中のことでもあり、その被害は、報道されることもなく、被害も伏せられました。戦争で、若い男はいませんでした。家がつぶれ、その下敷きになってしまった人々を救うことは、大変難しかったと思います。今のように、機械があるわけではありません。暗い夜道を知らせに走り、たれている電線のために大けがをした人もあったといいます。
 戦争が終わったのは、この地震から半年あまり後のことでした。当時、となりの豊坂小学校(その頃は、幡豆郡)に勤めていた杉浦敦太郎という方が短歌を残しています。


三河地震に関係した歌

 

 地図の上にしるしつつゆく断層線三ヶ根山をめぐり居るらし

 

 枯れ草の中に瀬音のひびきつつ隆起地帯は白く涸れたり

 

 仮小屋の屋根葺く藁屑散る村を圧死せし汝を祈りつつゆく

 

 雪散らふ谷辿りゆく土赤き断層線を仰ぎ見ながら

 

 敵迎へ戦ふ時を云ひたりき忽ち圧死す海辺の村に

 

 小隆起土竜の如く土もたげここにとどまる麦畑の中

 

 雪の散る夕日に立てり突堤を崩して断層は海に入りたり

 

 煤黒き大梁折れて垂れ下がる下に乏しく食らふ吾がうからら

 

 そして、戦争が終わり、その時の歌も、

 肩寄せて女教師らは泣き出しぬ吾れはただただ打ち疲れゐて

昭和20年8月15日

1975年頃の写真

深溝小学校に残る断層写真のいくつか

写真@ 山地内の割れ目。地面が引き裂かれたようになっています。(場所不明)

写真A 山地内の割れ目。@の写真と同じ場所と思われます。(場所不明)

 写真B 左手向こうに見える池からみて、西深溝にある断層とみられます。まだ、田として利用されていた頃です。右の一番高い田と左の一番下の田は、同じ高さだったのです。

2000年頃の写真
 中央遠くに池が見えます。子どもたちと比べると、右側の土地(南側)が1m30cmほど隆起したことがわかりますね。

深溝小の生徒が調べた「三河地震の体験談」

 深溝小学校の生徒が調べた「三河地震の体験談」を掲載します。
 
「深溝断層」(昭和49年1月作成)

 昭和49年1月に、幸田町の教職員が深溝断層についてスライド教材を作成しています。以下に、それ掲載します。
(「コメント」は、スライドの説明です。茶色で記してあります。)

「このように断層面が現れています。上へあがって見ると・・・・。」

「このようになっており、一方がせりあがっていることがよくわかります。この高さの違いは大きいところでは2mもできました。」

「このような断層面は、三河湾から形原、深溝、幡豆をとおり西尾まで続いています。」

 お寺のとなりには、断層がていねいに保存されています。(草の生えていない部分)
(2010年撮影)

 深溝小学校の現在は駐車場となっているところにある断層線です。
(上の対比写真をご覧ください。)

「保育園の横の道の北側では、このようながけができました。

「火山の爆発以外の地震では断層をともなうことがよくあります。地震や断層の予測は今のところまだできてはいません。私たちはいつ地震が起きても落ち着いて行動できるように心がけておきたいものです。」

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逆川・稲吉さんの体験談

地震の直後の体験

地震の直後から救助と連絡に走り回った方が書かれた記録です。

深溝小学校に来ていただき、60年以上も前の体験をお聞きしました。

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深溝小運動場から南を見る。×印が断層線です。

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※青色の説明(と写真)は、今回HP作成にあたって追加しました。『深溝小記録写真集』は、明治以降の深溝小学校に関係する写真を記録した写真集です。

×印は、「割れ目」をつないであります。実際の「断層線」は、これよりも右(少し北側)を通っているという指摘があります。

あとがき
 深溝小学校のHPに「三河地震と深溝断層」の記録についてのせることが懸案となっていました。そして、今回みなさまのご理解があり、このページを掲載することになりました。
 「地震はいつか起きる」のです。しかし、断層の跡が埋まり、人々の記憶からも地震の怖さがうすらいできていることが心配です。
 25人の方々が亡くなり、川原で荼毘に付したことを聞き伝えていますが、今一度地震の破壊力のすごさと、その中で人々が生き、過ごした時のことを考えてみたいと思います。
  HP「三河地震と深溝断層」が完成して、掲載する運びとなりましたが、みなさまの体験や調査したものを追加し、さらに良いものにしていこうと考えています。三河地震や深溝断層に関することをお寄せください。
 なお、HPの作成にあたっては、「三河地震による深溝断層」を長い間掲載していただいた蒲郡市視聴覚センターのご理解がありました。

 校舎解体時に見つかった地面の割れ目です。
 この割れ目は、向こうに走っており、コンクリートの基礎を破壊しています。

 『深溝小記録写真集』より

『深溝小記録写真集』より

 深溝保育園の横の道を少し北にいったところの断層跡と予想されるところ。
 断層線は、道路の右から左の山の中に入っていると予想されます。(2013年1月撮影)

三河地震(1945年1月13日)と深溝断層

「さきほどの職員室の裏の地割れは、ところによってはこのような形で残っています。これは市場の西のはずれのやぶの中ですが、地震の前は平らにつながっていたのだそうです。このことは地面の一方が高くなり、他方が低くなったことを表しています。このように地面がずれる現象を断層と言います。そして、三河地震によってできた断層を『深溝断層』と名づけています。」

 左の写真の現在の様子です。耕地整理が行われ、1枚の田が広くなっており、断層の跡は全く残っていません。
 遠くの山並みは、あまり変わっていません。

 (2012年12月撮影)

「西深溝と逆川の峠です。ここから吉良へ向かって断層面は続いています。 幡豆郡の中でも横須賀が被害が大きく、255人の人が死亡し、13400戸の家が壊れました。また断層の北のはずれに近い福地では226人が死亡し、550戸の家が壊れました。」

「これは形原の本通りです。ここには、石七工務店の建物が今も残っていますが・・
 (※注 その後、取り壊されてなくなりました。)」

「これは形原の宗徳寺というお寺です。このお寺の右の建物と左の建物は 高さが同じだったのだそうです。本堂の裏にお墓がありますが、お墓の横には当時の地割れがたくさん残っています。 (注 この地割れは蒲郡市指定天然記念物として保存されています。) 」

深溝小学校下(北側)に残る地震の跡
 手前の石垣の左は、石垣が直角になっていますが、ただ直角になっているのではなく、角が一つ出ています。これは、「もともと直角だった石垣」の左部分が押し出されたために、複雑な石組みになったのです。
 当初は、土が押し出されて、石垣がくずれたので、その部分をさらに石垣で組んだのです。
 写真の上部に、深溝小学校の校舎が見えます。この急な斜面は、深溝小学校の方が「持ち上がった」ためにできたように見えます。

「これは地質によって色分けした図で、丸の部分が深溝地区になります。ここには、地質断層と呼ばれる古い時代の断層の跡が書かれていますが、三河地震による深溝断層もこの近くを通っており、地質の弱いところに断層が起きるということが言えます。もう何十年もたって断層をともなう大きな地震が起きたときも、やはりこの近くを断層面が通るであろうという事が考えられます。」